ポエム

あなたが今

何をしてるのかも

どこにいるのかも

もしかしたら

そこにいるのかすらも

私にはわからない

私、あなたのこと なんにも知らない

あなたは何が好きで

何を夢見て

なんのために生きるの?

それとももう やめてしまったの?

 

私が消えたいって言ったあの日

あなたは私をどう見たの

君に言われた「生きなよ」

それだけで ただそれだけで

今日もきっと どこかにいる

あなたのために

私は生きてる私を

どう見たの

 

同じ星から

同じ星を見てる

あなたのために

消えない理由を作って

消せない日々を重ねる

私をあなたは

何かの意味に してくれてるの?

 

 

プレゼント

兄が私の20歳の誕生日にくれたプレゼントは、今まで行ったことのないような高級レストランでのご馳走と、筆記具だった。食事中、将来の話になったが、人の話をあまり覚えていない兄が、唯一覚えていてくれた話は「文章を書く仕事がしたい」というわたしの夢の話だった。その後、プレゼントを受け取ってはっとした。わたしの夢を応援してくれてるんだ。駅の改札を挟んで渡されたプレゼントは、兄の言葉なしの優しさを感じるにはあまりにも十分だった。

こんな歌あったら泣いちゃう

その頃私は、目移りする余裕もないくらい、あなたを愛していた。

飽き性な私が、これほど一途になったことはなかった。

痛いほどまっすぐに、あなただけを見ていた。

苦しいほどに、あなたを愛していた。

永久という言葉の意味を知った気がした。

戻れない日々があることも

好きというだけで涙が出ることも

全部あなたが教えてくれた。

最高の幻想を

本当にありがとう。

未定

人生楽しい?とか人生楽しんだもん勝ちとか言うけどそもそも人生を楽しまないといけない理由ってなんだろうね。

どうせ生きるなら楽しいほうがいいからかな。

人生別に楽しくないよ。それに、楽しまないと損なんて思ってないし。

毎日「ああもうダメだな」って思うし、このまま何も変わらなかったらどうしようって、考えただけで怖いし。

みんな楽しいの?生きるだけで必死やわ、楽しむ余裕ないな。

 

UVERworld 結成20周年

自分が世界で一番大切なものは何かと問われたら、きっとこの命だと答えるだろうが、その命が大切な理由は、彼らに想いを伝えるためだと思う。

彼らのためなら死ねる、そんな表現がよくあるけれど、私はむしろ彼らのために生きたいと思う。まだ死なない理由が、そこにある。

死にたくなった夜に聴いたあの曲が、今日まで私を生かしている。まだ生きたいと思わせてくれる。

彼らの生きる世界に生まれてこれて本当によかった。

本当に、心から、UVERworldが大好きだよ。

結成20周年、おめでとうございます。

唯一

私にとって、家族で唯一信頼しているのは兄だけだ。そんな兄との話を書きたいと思う。

幼稚園の頃、絵を描くのが好きだった私に、兄は毎日のように戦いをしようと誘ってきた。戦い、と言っても、言わば怪獣ごっこのようなものである。本当はずっと絵を描いていたかったけれど、戦いに付き合ってあげていた。今思えば、3.4歳にしてはよくできた妹だと思う。

ピアノや書道など、習い事はもちろん、高校、大学と、進路まで、私は全て兄の真似をしていた。兄は小学生の時から人々の中心にいたので、その妹と言うだけでどこへ行っても勝手に顔が広かったし、「あいつの妹だから」というだけで勝手に評価が上がることだってあった。なんて都合のいい、というかおいしいポジションなんだと何度も思った。それと同時に、兄の名に恥じぬよう、真面目に生きようと、自然と何事も頑張ることができた。

兄が反抗期だった時期は、正直地獄のような日々だった。普通に接すると何をしても八つ当たりされたし、家で発言する権利をほぼ奪われていた。兄が高身長だったのもあり、すれ違うだけで怯えるほど脅威の存在だった。それでも、時々一緒にゲームをしてくれたり、一緒にテレビをみて笑ってくれる兄を、嫌いになれなかった。

6歳からサッカーをしてきた兄が、現役を引退した時は、自分の引退試合よりも泣いた。本人は泣いていないのに、なぜか私が家族の誰よりも泣いていた。3歳の頃から、気分が悪くなるくらい暑い夏も、後日体調を崩すくらいに寒かった冬も、立っていられないくらい強い風の日でも、傘の意味がないくらい雨が降る時も、飽きるほど試合の応援に行っていたから、兄がどれだけ頑張ってきたかを考えると、なぜか涙が止まらなかった。あんなに億劫だった試合観戦だったのに、もうこの姿を見れないのだと思うと、寂しくて仕方がなかった。

大学生になって、高校の部活のコーチを始めた兄は、私の同級生を指導することになり、サッカー部の人たちに「あのコーチの妹らしい」と言って無駄に怖がられた。あらぬ噂を立てられて、勝手に距離を取られた。部員の中では、「コーチは妹のことがとても好きで、兄妹仲がいいから、妹に変なことをすると俺たちはどうなるか分からない」、そんなことが囁かれていて笑ってしまった。そんなわけないのに。

大学三回生の秋頃、コーチと掛け持ちで、高校から通っていたトレーニングジムのお手伝いをしていた兄が、そこで本格的に働くことになり、さらに国家資格を取るために、専門学校へ通うことになり、コーチをやめることになった。コーチをやめるかやめないか、就活をせずにそこで働くこと、専門学校に行くこと、色々なことで両親と揉めていた日々は、私にとっては息苦しくて、とても居心地が悪かった。この頃から、兄と両親がなんとなく険悪になった。

結局コーチを辞めて、本格的にジムで働き始め、専門学校の入学試験の勉強をし、無事に専門学校へ入学したわけだが、当時兄はまだ大学に在学中で、まさに三足のわらじの生活を送っていた。この頃、兄と両親はよく揉めていた。反抗期以来の、居場所のなさだった。家にいたくない、家にいるのが辛い。私は逃げるように出来るだけ外に出かけるようになった。生活リズムの違いもあり、噂を立てられるほど仲が良かったはずの私たちは、同じ家に住むのに会話を交わさない、それどころか、会うことすらほぼなくなった。時々話しても、心ないことを言ってきたり、理不尽なことをされたりしたので、早く出て行けと毎日願うほど私の中で兄は邪魔な存在になっていた。

兄は突然実家を出て行った。職場と専門学校が実家から遠かったから、近くで一人暮らしを始めることになったそうだ。母はよく、「あなたはあいつみたいに自分勝手で薄情な奴にはなるなよ。安定した職について、とにかくあんな生き方はするな」と、兄のことを反面教師のように話してきた。私は、両親との口論も見なくて良くなるし、嫌なことをされなくて済むからと、内心ほっとしていた。これで平和な日々がやってくる。そう思っていた。

兄が出ていくと、家が一気に広くなった気がしたし、空気が軽くなった気がした。今思えばそんなの、とんだ勘違いだった。

私が小さい頃から、両親はよく喧嘩をしていたけれど、兄が出て行ってからもそれは当たり前のように続いた。日に日に関係が険悪になっていたのが加速したような気がした。兄さえいなくなればと思っていたのに、また家にいるのが辛くなった。

ここでは詳しく書かないが、それからも家族の間で色々なことがあり、精神的に追い詰められてしまった私は、大学生活をまともに送れなくなった。大学へ行くと、周りのみんなは、新生活に胸を踊らせ、楽しそうだった。私はこんな状況なのに。それを見ているのが辛くて、大学へ行くのが辛くなった。でも、家族や友達には迷惑をかけられないから、毎朝起きて、着替えて、メイクをして、ちゃんと家を出て、学校へ向かうのだが、授業に出ずに図書館で過ごしていた。時々授業へ出ては、全く聞かずに友達と話したり携帯を触ったり、ずっと一人で寝ていたり。昼休みは高校から仲のいい友達と話して、学校が終わるとバイトへ行って、あたかも普通の大学生活を送ってきたかのように帰宅した。両親にも友達にもバレないように必死だった。時々授業を受けても、当然授業は理解できないし、成績は最悪だったし、時々行くサークルは馴染めないし、一回生の前半は、本気で生きてる心地がしなかった。

そんなある日、突然兄から電話がかかってきた。最近どうだ、元気にやっているか、と。私は心配をかけたくなかったので、元気にやっていると答えた。兄はその日の夜家に泊まりに来いと言ってきた。授業の用意しか持ってきていなかったけど、私はその日兄の家に帰った。夜遅くまで仕事漬けの兄の仕事終わりを待って合流したのは22時ごろで、そこから近所のスーパーへ行った。行き道、大学はどうだと聞かれた。行っていないなんて言えなかったから、楽しくやってる、けど勉強が難しいと、それっぽいことを言った。兄は私の作り話を、そうか、と適当に流した。スーパーに着くと、「給料入ったところだし、専門学校の学費の奨学金があるから俺は今金持ちなんだ。なんでも買ってあげるぞ。家になんにもないから、ジュースとかおかしとか、買っておけよ。」と言ってくれた。職場は、高校からの付き合いで雇ってくれたとはいえ勤務内容には到底居合わない給料なこと、その中から、家賃や生活費、専門学校の学費を払っていて生活はギリギリなことを私は知っていた。お金なんてないのを分かっていたけど、兄の優しさがうれしかった。半額になったお菓子や、特売になっていたジュース、売り場で一番安かったアイスを買ってもらった。兄妹なのだから、ここまで気を使わなくてもいいのかもしれないけど、私にはそれが精一杯の贅沢だった。

帰り道に色々話していると、「家にいるのが辛かったら、出て行ったらいい。お金のことはなんとかなるし、俺と住んでもいい。」と言ってくれた。その時初めて、そのきっかけを作ってくれたのだということを知った。たった一人、家族を捨てたように家を出た兄は孤独な私のことを分かっていた。早く出て行けばいいと思っていた自分が憎くなった。

次の日の朝、私は普通に家に帰ったが、別れ際に「またいつでも来い」と言ってくれた。居場所のない気持ちがどこか満たされた気がした。

それからも、定期的に連絡を取り合って、悩みを相談したり、買い物に出かけたりして、昔よりも仲が良くなった気がしている。実家にはほとんど帰ってこないし、両親とは連絡を取っていないらしいが、そんな兄は、家族の中で唯一全てを理解してくれていて、信頼している人だ。

いつかこれ、全部話せたらいいな。

はやく結婚してくれよ〜なんてな〜。

みんなはどう?

決して特別に裕福とは言えないただの一般家庭に生まれたが、小さい頃は、出かける度に何かを買ってもらわないと気が済まない奴で、メモ帳やらぬいぐるみやら、色んなものを買ってもらっていた。
母は、自分が小さい頃には欲しいものを簡単に買ってもらえなかったからと、我が子には出来るだけ欲しいものは買ってあげたいと言い、沢山買ってくれた。
大きくなって、私は普通の公立の小中学校に通って、普通に部活をしていたけれど、兄は中学でサッカーのクラブチームに所属して、チームウェアや遠征など、とにかくお金が掛かる生活だった。おかげで高校はスポーツ推薦で合格した。推薦ではあるが、学費の免除は無く、私学なだけあって、これまで以上にお金が掛かった。だからといって決して生活が苦しいなんてことはなかったし、今まで通りの生活だったが、私はどこかで「はやく自分のものは自分で買えるようにならないと」というような使命感を感じていた。
しかし、兄の楽しそうな高校生活を見て、私も同じ高校行きたいと思い始めたのもまた、この頃だった。お金が掛かるのは分かっていたし、両親の負担になることも、公立に行くことが一般的な進路であることも分かっていた。しかし、どうしてもそこに行きたいと思った。両親は兄に続く私学への進学を止められなかった。止められるとは思っていなかったし、正直止められても押し切る覚悟ではいたが、この選択をすることに多少の罪悪感があった。
合格するまでに、塾に行って、たくさんのお金をかけてもらった。合格してからも、もちろんお金は沢山かかった。
高校に入ってからは、大好きなアーティストのライブへたくさん行けるようになった。部活をしていたから、バイトはできなかったので、そのお金も、親が払ってくれた。ノリも半分混じりつつも、「親のお金だから」と言って、他にも沢山の物を買ってもらって、高校生活を楽しんでいた。
しかし、ずっと頭のどこかに「自分はなんてお金のかかる子なんだろう」とか「ただでさえ私学に通わせてもらってるのに」とか、そんなことがよぎっていた。だから、引退したらすぐにバイトを始めようと思っていた。
そんなタイミングで、兄が大学と並行して専門学校に通い、さらに仕事に就き、実家を離れることが決まった。兄は、さらにお金がかかる道を歩んだ。夢のためだから、それを親も止めなかったし、私も応援していた。
しかし、それらによって私の中の使命感が自然と増した。部活を引退して、夏休みからバイトを始めた。趣味を充実させるため、自分の欲しいものを買うため、必死に働いた。バイトの掛け持ちもしたりした。働いていくうちに、今まで自分が手にしたことのない金額が、自分の口座に入っていた。すごく嬉しかった。これでやっと、自分のしたいことを自分のお金でできる。ずっと思い続けてきた使命感を、どこか達成できた気がした。少しの贅沢も、「自分で稼いだお金だから」と思えば、惜しくなかった。むしろ、心地よくて幸せだった。
しかし、周りはバイトなんて全然しなくても、親のお金でやりたいことも欲しいものも充実できる人達が沢山いて、自分のお金で贅沢をする幸福よりも、そのほうがもちろん楽だろうなぁと、羨ましかったし、それができるなら、きっとしていたんだろうなあと思った。
周りから「働きすぎだ」「そんなに働いてなにがしたいの?」と軽いノリで笑われることもあった。別にそれは嫌じゃなかったし、ノリだと分かっていたから、私を見下しているわけではない。実際自分でも、なんでこんなに働いているんだろうと思うことももちろんあった。自分の趣味のためだから、というのはもちろんそうだけれど、別にそれだって親の金で全て出来る人もいるし、きっと自分もお願いすれば出来るのを分かっていたからだ。
けど、昔からずっと、兄を見てきて、お金がかかるのも知ってる上で、自分も、ただでさえ人よりお金のかかる道を選んでるのを見てきたので、やっぱり頼めなかった。お金がかかる、とは言っても、周りの家庭からしたら「なんだそれだけか」というくらいの金額かもしれないけれど、それでも一般家庭で育った私にとっては、相当な金額だった。

それに私は、要領のいい兄とは違い、受験も、学校の成績も全てが劣っていた私は、「自分でお金を稼ぐことくらいしか親孝行ができなかった。しかし私が悲しかったのは、兄より要領が悪かったことではない。

兄は高校生の時、部活で多忙な日々を送っていたので、まともにアルバイトはしていなかったけど、部活を頑張る兄に、両親は色々なものを買い与えていた。もちろん必要だったからであるし、それを妬むわけではなかったけど、兄にはたくさんのものを買い与える両親は、バイトをしているというだけで私にはあまりお金をかけてくれなかった。お金を要求すると、嫌な顔をされている気がした。兄は部活を頑張っているからバイトができないから仕方ない、でも私は普通の高校生活を送り、平凡な部活に入り、すぐに引退したから、バイトをして当たり前だ。そう言わんばかりの態度だった。私だって、頑張ってきたんだけどな。でも、要領は良くないし、親には本当に迷惑をかけてばかりだったから、仕方ないのかもしれないな。でも、兄妹でこの差はなんだろう。そう思うと、悲しかった。お金をかけることだけが愛情ではない、それは分かっているけど、やっぱり両親はこんな私よりもなんでもそれなりにこなす兄の方が、可愛いのかなと思った。

そして何よりも周りの子はみんなこんなこと考えたこともないんだろうということだった。同じ年に生まれて、同じだけ生きてきて、でも生まれた家庭が違うから。私学に通っているから、もちろん裕福な家庭の子が多いのは分かっていたけど、こんな高校にいるから、こんなに悩むのかなと思うと、兄に憧れて、やっとの思いで合格して勝ち取ったこの環境すら憎らしかった。そんな考えしかできない自分が、悔しかった。

お金があれば、お金さえあれば、こんなことに悩まなくていいのに。そんな気持ちが芽生えた。お金より大切なものがあることを、分かっているはずなのに、そんなことを考えてしまうのが虚しかった。お金より大切なものがあることを分かっているのは、お金をある程度持っている人だけだと知った。当時の私にとっては、お金は目に見える幸福であったし、心を充実させる一番の道具だとおもっていた。

正直今でもそうやって考える時があるし、きっとこれからも考え続けるけど、いつか本当の大切なものに出会えたら、この呪われたような思考に、トドメを刺したいと思う。